ふっと思うことがあるんだけど
かつていじめられたことがある人や、いじめの後遺症で精神疾患になったりしたことのある人で、
いじめ裁判…親が学校のせいにして賠償金を求めるものをみて、精神的につらくなる人はいないのかなと思う時がある
なんだろう、誰得?みたいな。
私には関係ない世界だなってきっとさらに思うかもしれない。
生まれ変わってもきっと自分は死ぬだろうとか、精神疾患になるだろうとか。
たぶん、いじめで死ぬ子の一部は、自分が死ぬことでどれだけ親が傷つくかはわかっていると思う。
…いじめた相手を許せないってテレビに出てくる親は言うけれど、長い間いじめられていて、死ぬ子には全く関係がない親だったのかもしれない。
いまだに私はそう思う。
わたしは子供の時ずっとそう思っていた。
わたしのことは、お母さんには関係ないんだよね。
私が死んでもきっと、お母さんには関係ないよね。
せめて、生命保険がもらえるようにして死ぬから、そうしたらこれまで私にかけた学費とか、全部無かったことにできて迷惑かからないよね。
と、ずっと思っていたんだけど、
とにかく、裁判のニュースを見ると二重の意味で気持ちが痛い。
まず、いじめの描写が辛い。どんなに辛かったかと思うと吐き気がする時もある。いっときに変な人に絡まれて死ぬのは事故かもしれないし、どんな人でも可能性があるかもしれないけど、何年にもわたって学校で暴行受けてたとか、そういうのは本当に辛い。
つぎに、親が言ってることや学校の先生たちが言ってることが、あまりにどうでもよくて辛い。私がこれまで聞いた、教育長のコメントで一番刺さったのは、"学校は命をかけてまで行くところではありません"っていうのだ。
これだけはとても心に残った。
だけど、学校に命をかけて行くところではないとして、行かないとした時にいる場所がないのだ。いじめに限らず戻るところがないから、学校に行くしかない。
私も、お母さんの気持ちを考えて、とか言われた。お母さんはあなたが学校に行ってなくてもずっと学校にきてくれている。
…でもそんなの私に関係ある?ありがとうございますとか、申し訳ありませんとか言うけど、
ねえ私ちょっともう疲れたよ。いなくなりたい。起きたくない。私この世界に関係がない。
…みたいな。逃げ場がないところが子どもの辛いところだ。
もしかしたら、本当になんとか助けようとしたけれど、あまりにいじめの内容が酷くて、助からなかったケースもあるかもしれない。
大人になって、そう思う。
大人になってももちろん地獄はあるけれど、子どもは、それが地獄なのかわからないところがあるかもしれない。
なぜかというと、生まれた時から家庭が地獄のような場所だったから、未来に希望を持つ理由がなかったのだ。
人から、希望を持って、と言われても、同じ経験を与えてもらえるものではないから、言葉ではなかなかわからない。
同じ体験をさせられる人なら、そういう意味が少しでもあるのかもしれない。