記録によれば2019が瞑想の始め。
しばらくやってからinsight timerっていうアプリを使い始めてiPhoneと連携してたので、その頃からの記録が残っている。
ネットで知ってまもなくカバットジンの本を読んで、それに則ってプラクティスを始めたので、MBSRよりになったのは少しあと。
さらにいうなら、正式なMBSRを受けたのは(オンラインだけど)さらに後。
カバットジンの本によって瞑想をするのは、非常に効果があった。
当時森田療法もやってたけど、森田療法は外に出ていくという意味では大変良いんだけど、根本解決にならない。てか、しない。
そういうもので良いとする。
でも、それではすまないこともある。
ていうか禅においても結局はそうではないと思われる。
たぶん懊悩の種類や感覚が生病老死以外の要素が違う部分はあったかもしれない。戦とか。
とはいえ鴨長明とか読むと今も昔も同じだなって思うけど。
unspoken feelings を意識化(aware)することで人が苦痛から解放されていく、というのは実際問題本当にあることで、少なくとも私は実感したんで間違いないと思う。
たとえその経過にそれなりの苦しさがあったとしても、だ。
ただ、それは言葉による精神療法と目指すところとしてはそんなに変わらないかなと思わないでもない
力があるのは瞑想そのものなのだと思う。
自分自身に関してでも、公案に関してでも、瞑想し続けることは同じなので…
…だけど、本来、これは本一冊と自分自身で可能な事柄でもある。
師匠はあったほうが良いと思うけど恵まれなければいなくてもやらざるを得ない。
仏陀はヴィパッサナー瞑想の創始者ということで、この系統の技術を教えてくれるところは、必ずしもMBSRに限らずたくさんある。
でも現代人が突然、夜船閑話とか摩訶止観とか読めたものではない。とつぜん修行に出られない。
MBSRはどうしてもお金がかかる
何をやってもお金はかかるけど。
溜め込まない、お金が幸せではないという考えと現実が離反してしまう気がしている
生きていかなければならないからお金は必要、だが、お金次第になってしまう一時分がなんとなく違和感がある
故にあれは入り口なんだと思う。
カバットジンはとても優秀で、誰でも実践ができて多くの人の精神を救う方法を、数千円の本にして世界中に行き渡らせた。
本来的に、本一冊でできること。
だけどきっと、
到達点は同じなのかもしれない。
むかし読んだ西遊記かなんかに仏に至る3000の道があり…みたいなのがあった気がする。
しかし違和感を持つこともある。
MBSR関係とかでたまに出てくるインドのお金がなくても幸せな人の話がある。何も持っていなくても、満足していて幸せである、と。
なるほどそれは実際幸せであろうけれど、
私は、アマルティア・センの、それは平等?っていう考え方が一つ引っかかる
誰かが悟りを開こうとすることは、誰かが人としての義務を果たさなくても良い言い訳には当然ならないし、awareであろうとする人はこの部分にもっとawareでもよいのではないかと思うのだ。
ブッダは皇子だったから全て捨てて出家している。
それができない我々にとっては、何がなすべきことなのか。